10『芸術公論』第7巻第6号(通巻40号)、1990年12月号、川澄吉広 選評
- kujakuhanamasakobl
- 2024年3月10日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年4月11日
〈日・欧・米 厳選作家による誌上交流〉

「宴(うたげ)」 1990年
162cm×130cm 油彩

(選評のテキストデータ)
〈日・欧・米 厳選作家による誌上交流〉
「宴(うたげ)」
千代紙を無作為に貼り合わせたような画面に瞬間、天地の区別すらない抽象画を見たような戸惑いを覚えた。続いて孔雀を見いだし、納得するとともに感心した。
金子真子は憑かれたように孔を描き続ける作家だ。具象的に全体像を描くところからはじめ、要である尾を省略する、描かないことで描き出す方法に至っていた。観る者の想像力に美を託した作者が「宴」において孔雀をフォルムの制約から解放し、観る者の美に対する想像力を加速するところにまで来たことは当然のように見えてその実、驚くべき展開を果たしたと言える。 「宴」は記念すべき作品に違いない。 孔雀というモチーフを磁場に置いて金子真子がこれから見せる発展に期待する。
(文中のゴシック体・下線は金子昌子美術館運営委員会による)
【誌面構成上の昌子作品の位置づけ】
企画名〈日・欧・米 厳選作家による誌上交流〉と題して、フランス、アルジェリア、パレスチナ、ドイツ、スペインの芸術家とともに日本の芸術家を紹介したもので、ここで昌子は日本を代表する画家の一人として紹介される。

じつは、この企画のメインタイトルは〈国際芸術展 ~21世紀芸術への展望~〉。これのサブタイトルとして〈日・欧・米 厳選作家による誌上交流〉が付けられている。
海外の作家としては、ジェイムズ・コワニャール(フランス)、ジェラール・ディマシオ(アルジェリア)、アラン・ボンヌフォワ(フランス)、サージ・マルジス(フランス)、クレール・アステックス(フランス)、マックス・パパート(フランス)、テオ・トビアス(パレスチナ)、ベルトワ・リーガル(フランス)、ガンサ・ク―ニック(ドイツ生まれ、オランダ育ち)、アンジェリーナ・ラヴァーニャ(フランス)の10名の作品が紹介されている。
同誌 表紙

同誌 目次見開きの右ページ

同誌 目次見開きの左ページ

この1行目に〈国際芸術展 ~21世紀芸術への展望~〉がみえる。
そのアップ

同誌 奥付

奥付のアップ

【この企画の成立過程の分析】
上述のとおり、ここで紹介された海外勢は10名。これに対して、日本勢は71名に上る。日本で出版された美術雑誌なので日本人を多く掲載するのは当然なのだろうが、いかにもアンバランスである。そこで、日本勢71名の内実を分析してみると、次のとおりとなる。
洋画(油彩)…………………43名
モダンアート、パステル画…3名
日本画・水墨画……………… 3名
書道……………………………15名
彫塑・造形・陶芸…………… 4名
建築装飾……………………… 1名
染色…………………………… 1名
切り絵………………………… 1名
以上で71名である。一方、海外勢の10名はすべて洋画(油彩)である。海外勢の造形作家、モダンアート作家などはまったく紹介されていない。ということは、この企画が、海外勢と日本勢の洋画作家を比較しようとの意図から出発したことを示している。その後、日本勢については洋画以外の芸術についても総合的に俯瞰すべきとの意見が出て(『芸術公論』ゆえ)、洋画以外の作家も紹介することになったものと推測される。
ということは、日本勢の代表的洋画家(油彩)41名を海外に向けて発信することがこの企画の本旨であったと考えられる。昌子がこれまで選に入った企画は、「新人」「注目」「気鋭」などという冠詞がつきまとうものであったが、ここに名の上がった41名はたしかに1980年代における日本の洋画壇を代表する画家たちであったといってよい(この中の10名前後は受賞歴の少ない作家が抜擢された感があるが、昌子はそうではない)。8年前の1983年、細々としたかたちで美術雑誌に掲載され始めた金子昌子が、ついに日本を代表する画家の仲間に加えられたのである。
【この企画の昌子への影響とその後】
日本を代表する画家の一人と評されるまでになり、このころから昌子は、ニューヨークでの個展開催を考えるようになった。そのことは同時に、昌子をしてさらなる高みを志向させることになった。もう一段高い芸術家へと昇華するために必要なことは何か――いうまでもなくそれは技術や構想力ではなく「人間性」である。1990年以降の昌子は、深い思索期に入る。
また、1990年はバブル崩壊の時期に相当し、美術雑誌の多くが休刊・廃刊に追い込まれたり、ウェブ版への移行を余儀なくされたりしたため、この『芸術公論』1990年12月号が昌子の美術雑誌掲載の最終号となった。そのことがさらに、昌子を美術界という社会から遠ざけていったのかもしれない。しかし昌子は、そのことを何とも思わなかったであろう。もはや世評を気にする域を超脱しつつあったのである。そのことは、第五期の曼荼羅の世界観から窺い知ることができる。


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