金子昌子と伊藤若冲
- kujakuhanamasakobl
- 9月24日
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更新日:9月24日
昌子にとっての若冲
金子昌子は、長年に及ぶ画業の中で、さまざまな画家たちの影響を受けてきた。
初期の昌子はゴッホ、ピカソの影響を受けていたという。そして、中後期には、田中一村、マリー・ローランサンの影響を受けた時期もあった。その中で、昌子の二人の娘によれば、昌子のアトリエには若冲の画集もあり、何度も見返していたという。
伊藤若冲(1716~1800、京都の商家生まれ)の画風の幅広さはよく知られているが、その中でも「動植綵絵」(三の丸尚蔵館蔵、国宝)など精緻な筆致の絵の影響を、昌子は受けている。



昌子の写生精神と若冲
昌子が絵の世界にのめりこんでいったのは7歳ごろからだが、大学で美術科に進学したころまでは身の周りの動植物の写生を基本とした模写を徹底的に行ったようである。
昌子のデッサンの精緻さは美術評論家たちの間でも有名で、美術雑誌に昌子のデッサンが掲載されたこともある(『芸術グラフ』1983年8月号、森田文雄の講評。『芸術公論』第4巻第3号、1987年、佃堅輔の講評)。そして、「デッサンが売り物になる」と言われていた。
おそらく、「金子昌子は若冲の影響を受けた」というよりも、正確に言えば、精緻なデッサンを基礎とする画風に親近感をおぼえていたのではないだろうか。










昌子と若冲の違い
昌子が若冲の絵の世界に惹かれたのは第3期のころと考えられる。なぜならば、同じクジャクの羽根でも、第1期・第2期よりも第3期のほうが精緻さを増し、色彩も鮮やかで華麗なものになっていくからである。それでいて、第3期の羽根は、実際のクジャクの羽根ではなく、抽象化されたものになっている。そこが、昌子と若冲の決定的な違いである。


昌子のクジャクの絵には、中央に一羽の勝ち残ったクジャク、その周りに嫉妬と怨嗟に満ちた群れを描いた作品もある。
昌子は、クジャクを通して、「人間とは何か?」「人間社会の中で生きてゆくとはどういうことか?」を見つめていたのである。

昌子は熊本市動植物園に通って、ケージの中の至近距離からクジャクの観察をしていたという。昌子が連日、朝から夕方まで通いつめ、デッサンをし続けていたので、その姿に打たれた園側が、特別にケージの中に入ることを認めたというエピソードが伝えられている。
昌子は、クジャクの中に戦闘的な姿を感じ取っていた。それがもっとも強く現れたのが、「いつくしみ」である。本能がある以上、「競い合いには勝ちたい」と思いつつも、「生き残ってしまったあとの虚しさ、寂しさ」を昌子は感じ取っていた。
――昌子は、美というものの背後に「生のありよう」を見ていたのである。

『芸術公論』第4巻第3号(通巻19号)1987年5月号に掲載。佃堅輔 選評。

昌子の人間洞察は第1期の「舎のとり」(1977年)「華麗なる競演」(1978年)のころから始まっており、上述のとおり「鳥界」(1983年)を経て第3期の「いつくしみ」(1987年)まで一貫している。その中で第3期の昌子の絵に若冲の影響がみられるとしても、それは技術的なものにとどまるものであり、昌子は終始一貫してカネコマサコであったことを思い知らされる。
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