2019年 画廊ぶらんしゅ個展~母昌子の想いを二人の娘が~
- kujakuhanamasakobl
- 2024年3月16日
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更新日:2月17日
「金子昌子展 ~イマージュと幻影~」
金子昌子の1990年代~ニューヨークでの個展開催に向けて~
昌子が美術雑誌で紹介されていた時期は1983~1990年の8年間です。つまり、1990年12月号の『芸術公論』第7巻6号(通巻40号)での紹介が最後です。しかし、1990年を最後に昌子が絵を描かなくなったわけではありません。1990年といえば、バブル崩壊の年。じつは、美術雑誌が次々に廃刊・休刊に追い込まれた年だったのです。
むしろ昌子は、ニューヨークでの個展開催を目指して、ますます精力的に100号超の大作を描いていました。1995年ごろ、夫とともに個展開催のギャラリーを探すためにニューヨークに行っていたほどです。
ところが、1998年ごろ、夫が病に倒れ、昌子は夫の看病をすることになりました。当時の夫はまだ60代でしたので、昌子は当然、回復を願っており、自分の絵のことは一時棚上げにして、夫の介護に自分のすべてを捧げておりました。しかし、昌子の献身的な介護も空しく、夫は2003年に還らぬ人となりました。
夫を失ってからの金子昌子の変化
夫を失った昌子は、立ち上がることができないほどのダメージを受けました。同時に、昌子自身に老化の波が押し寄せてきました。大作を描くには、気力がついていかなくなったのです。夫を失ってから2000年代に昌子が描いていたのは、第5期の曼荼羅です。夫の供養の意味も込めて、曼荼羅を描いていたのでしょう。
これはドイツのファーバーカステル社製の色鉛筆で、事務用のB5判~A4判程度の紙に曼荼羅を描いていたものです。絵筆から色鉛筆へ、サイズも100号超から小さいサイズへと、昌子の体力の減退を如実に反映したものでした。
母昌子の想いを二人の娘が
ニューヨークでの個展開催のために、昌子は描いた絵をほとんど売却していませんでした。そのため、100号超の大作の多くが手元に残ったままでした。
そもそも昌子の想いは、絵によって勇気を与えたり、失意の人を元気づけたり、傷ついた心を癒したり……といったことを願ったものでした。そういえば昌子の作品には、「いつくしみ」「こころざし」「初恋」「うれしはずかし」「希望」「ほとばしる情熱」「みなぎる気力」など、クジャクや花を描いたように見えてその向こうに「心」を表現することが多くあります。
ニューヨーク個展の開催を志しながら夫の介護でそれを断念し、それでも不満を漏らさなかった昌子の姿を二人の娘が不憫に思い、画廊ぶらんしゅ(大阪府池田市)で金子昌子の個展が行われたのです。それはまさに、「ニューヨーク個展」を別のかたちで実現したものでした。
この個展では、「金子先生の絵が見られるなら、日本全国どこへでも行きます」と言ってくれた来場者もいました。「見る人の心を揺さぶる」――昌子の願いが叶った瞬間でした。しかしこの時すでに昌子は84歳。これから4年後の2023年に、昌子も夫と同じ国へと旅立つことになりました。
画廊ぶらんしゅ

2019年7月24日(日)~8月4日(日)
AM11:00~PM7:00(最終日 PM4:00まで)、7月29日(月)休館
〒563-0031 大阪府池田市天神 1-5-16
受付付近

曼荼羅五部作と花が中心
展示室 第2壁面~第3壁面

「競華」「風わたる」「遊苑」が並ぶのは圧巻
展示室 第3壁面 左側

本展リーフレットでメインを飾った代表作「この道」「花」が並ぶ
展示室 第3壁面 右側

展示室 第4壁面

130号超の大作「凜(りん)」、そして美術評論家・川澄吉広が絶賛した「宴(うたげ)」など爛熟期の作品が並ぶ
サロン室

佃 堅輔によって高く評価された昌子のデッサンが展示された
「金子昌子展 ~イマージュと幻影~ 」 リーフレット
1ページ目と4ページ目
(上下に二つ折り、その外側に当たる)

2ページ目と3ページ目
(上下に二つ折り、その内側)



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