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曼荼羅の世界に至るまで

  • kujakuhanamasakobl
  • 2024年3月18日
  • 読了時間: 2分

更新日:2月18日



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 昌子が最終的に至り着いたのが曼荼羅であった。「昌子とデッサン」で述べたように、昌子は複数の美術評論家から高い評価を受けるほどそのデッサンの緻密さ、秀逸さが知られていた。すなわち、美術のたしかな基礎があったのである。それが顕著に表れているのが、第一期の作品である。

 その後、昌子は大胆な画面構成力を身に着け、また一方で伊藤若冲やアンディ・ウォフォールらから色彩の影響も受け、第二期・第三期の世界を築いていった。

 この頃までの昌子は、深い人間洞察を背景にして、「勝者」と「敗者」、「勝者」の美、「勝者」の気高さや矜持、「敗者」が「勝者」をみつめる羨望や怨嗟――総じていえば美の背後にある競争という残酷な現実を見つめるまなざしを貫いていった。

 その昌子に変化が訪れたのは、第四期の頃からである。孔雀がモチーフの一部として後退し、社会というより宇宙を志向し始める。そのテーマは、ひとことで言えば「森羅万象」である。人間世界からの超脱である。その第四期の延長線上に、曼荼羅の世界が位置づけられる。

 曼荼羅を描く際に必要だったのはもはやデッサンではなく、おびただしい枚数の緻密な下書きの積み重ねであったようだ。白い紙に、何度も何度も、来る日も来る日も、幾何学的な図形の組み合わせを書き直し続けていた。「黄金律」を探す旅に入っていったのである。自分が描いているのではなく、向こうから描かされているような虚心が昌子を支配していたのだろう。

 なお、100号の油絵を描いていたのと違って、第五期の曼荼羅は小型で(22cm×18cmが4枚、32cm×23cmが1枚)、しかも油絵ではない。ドイツ製のFEBER CASTELL(ファーバーカステル)の色鉛筆で曼荼羅を描いていたのである。力を抜いた自然体でこそ描ける世界がある、ということなのか。諦観の先に見えてきた世界――昌子が最終的に描こうとしたのは、「祈り」であった。

 
 
 

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